人気DJロバート・ハリスと写真家ハービー・山口が語る、2つの「東京オリンピックの時代」

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写真家ハービー・山口氏(写真右)が20歳のころに撮った沖縄の子どもたち

10月27日、代官山 蔦屋書店で、J‐WAVEナビゲーターのロバート・ハリス氏、国内外で活躍中の写真家のハービー・山口氏によるトークイベントが開催された。テーマは「'64 東京オリンピックとその時代」。「1964年が世界のターニングポイント」(ロバート・ハリス氏)という50年前の東京オリンピックをティーンエイジャーの青春時代に体験した二人が、当時の様子や若者像、カルチャーを語った。

人間の生き様が生々しい戦時中~戦後

ロバート・ハリス氏(以下ロバート) 親父は日本人の母とイギリス人の父のハーフで、戦争のときは日本に帰化していたにも関わらず、外国人収容所に入れられてしまったんですね。あわや、行ったこともないイギリスに送られちゃう1週間前くらいに日本人だと分かってリリース(釈放)されたんですけど。喜んだのも束の間、一兵卒として満州に送られてしまったんです。何とか生き残って帰ってこられましたが…。

戦時中、新聞もずいぶん国に統制されていました。戦争開始当時、新聞記者をしていた親父が書いた大見出しが「GO IS ON」(戦争が始まった)というものなんですけど、その後、憲兵隊に連れて行かれてしまいましたね。

1960年前後、特に前、東京はまだまだ道が汚かったり、戦争を引きずっている、そんな時代でした。

ハービー・山口氏(以下ハービー) 戦後は怪我をした兵隊さん、手をなくした、腕をなくしたって言って、充分な生活ができない人が、兵隊の帽子をかぶってアコーディオンを弾いていました。山手線、京浜東北線に乗ってきて、乗客にお金をもらうんですけど…。

ロバート  子どものわれわれには不気味だった。

ハービー わざと傷跡とか、義足とか、哀れなところを見せる。地べたを這うようにして弾いているのが…こわいんですよ。近づいてきて、アコーディオンの音が聞こえてくると「どうしよう」ってなってた。

ロバート 新宿の地下には、親を失った子どもたちが住んでいましたね。

ハービー 戦後の写真界はリアリズムがブームでしたね。写真家の土門拳が「いまの世相を撮るんだ」って言ったみたいに。

時代が変わり始める戦後

ハービー 僕は中学のころまで「腰椎カリエス」という病気を抱えていて、新宿の病院に通っていたんです。都庁、ヒルトンプラザ、京王プラザ(ホテル)があったあたりなんですが、当時高層ビルはなかった。一面の湖。淀橋浄水場といって、多摩川から水を引いていて、そこの水をきれいにして飲んでいたんですね。

僕はキラキラ光る水面を見ながら、少しの希望を感じていました。

ロバート 僕はその頃、横浜のインターナショナルスクールに通っていました。その頃、英語を習わないとっていう風潮がありましたね。年間200万円くらい払わないといけないので、アメリカ人20%のほかは、中華街のレストランのオーナーの息子とか、裕福な家庭の子とかが通っていて…。僕はアメリカングラフィティ的な青春を謳歌していました(笑)。

ハービー この人は女ったらしでさあ。

ロバート まだディスコができる前で。定期的にパーティーを開いて、学校の先生がダンスをして。僕たちは男女に分かれて「誰がいい?」なんて話をして(笑)。

ハービー 日本の男子はまったく逆で、色恋より勉強をしなさいという風潮だった。そのころ、僕も写真一筋でしたね。

日本が活気を取り戻し始める、東京オリンピック

ハービー 今の代々木公園のある場所は、当時は一面の芝生で、遠くに洋館が建っている、アメリカ統治下の土地だったんです。だから中には入れなかった。それが東京オリンピックの際に日本に返還されて、選手村になったんです。

競技がないときは、JR原宿駅に選手が見学に来ていました。当時はさびしい商店街だった竹下通りで、選手と一緒に写真を撮ってもらった。それが僕の始めての外国人とのコンタクト。英語も話せないし、どこの国の人かは分からなかったけど…。

ロバート 僕は横浜にいたんで、外国人ばっかり。そごう前にアメリカ軍の宿舎があったんですが、そこはもう、アメリカそのもの。道は運転右側通行だし、日本では珍しかったボーリング場があって、ハンバーガーが食べられて…(ハンバーガーの、そのうまさ!)。黒人の子どもたちが道端でバスケットボールで遊んでいる。

もう “におい”が日本じゃない。アメリカのにおいがした。

ハービー 港の見える丘公園あたりで、1970年くらいまで外国人の家があって、芝生でゴルフしたりしてたね。

ロバート 僕の学校(インターナショナルスクール)のなかはアメリカ文化。でも外にでると、美空ひばりの話でもちきりだったり、ホームレスが死んでいたりとか…ちゃんぽんの世界。

ハービー 港湾労働者もいたし。横須賀の軍港に近づくと、窓のカーテンを閉めなきゃいけなかった。国の機密があったから、写真なんか撮っちゃいけないし、見てもいけなかった。そういう時代ですよ。

ロバート でも、あの頃は希望に満ち溢れていて活気があった。横浜の白楽に闇市があって、古い、アメ横を小さくしたような仲見世があって、バナナのたたき売りとか古本屋があったんですね。僕と親父は古本屋でアメリカ軍のペーパーバックを買いに行って、家で読んでいたのを覚えてる。

テレビに映る、すごく大きい家に住んで、おいしいものがあって…というのにあこがれを持っていた時代。

ハービー 戦争でコテンパンになった20年後にオリンピック。海外の人もこんなに早く復興したの!?ってびっくりした。新幹線でしょ、あと、高速道路が間に合ったっていうのが奇跡ですよ。あれはね、江戸の運河の上に作って、土地を売収しないですんだから間に合ったんです。

ロバート あと、大きな変化って言えば、海外旅行が一般化したのもはずせないね。それまで容易に海外に行っちゃいけないっていう法令があったんですから。

それでも当時の初任給が2万円、ヨーロッパ往復が25万円でしたから、行くのは難しかったですけどね。

僕は1967年に高校を卒業して、すぐに旅に出たかったから、横浜からソビエト(現ロシア)の港に行って、汽車に1週間ゆられて旅をしたんです。当時ソビエトは社会主義で、有名な基地があるところでは写真を撮っちゃいけなかった。夜中にプラットフォームに着いても、軍の兵隊が見てる。道中ドクトルジバゴの本を読んでいたんですが、当時彼の本はソビエトでは発禁だった。取り上げられてしまって、仕方なく何日か『レーニンの経済全集 第3巻 英語訳』を読んでいたんですが…ぜんぜんおもしろくなかった!(笑)

ハービー 当時、飛行機だと『アエロフロート』が安かったんです。調子のいい飛行機だと2時間くらいで飛ぶんですけど、調整というか、不備があるとモスクワで泊まるんですよ。全員乗客は夜まで飛行場で待たされて、真っ暗ななか、カーテンを閉められてホテルまで移動するんです。夜明け前の3時に起こされて、表を見えないようにして、またモスクワ飛行場まで移動して、何時間も待たされて…ようやくフライト。

ロバート 僕もハービーも海外に行ったね。当時の大学生は、みんな西洋に目が向いていた。一度は1938年に決まっていたオリンピックが戦争でキャンセルになって、長い時間かけてやっと戦後の復興を世界が認めてくれて…。

カミュ(フランスの小説家)とか…フランス映画とかに憧れていて、背伸びしてでもゴダール(フランス映画の監督)を分かってる…みたいな人が多かった。アメリカ文化にもあこがれていましたね。ハリウッドとか、コルベットでアメリカ全土を旅しながら問題に巻き込まれていく『ルート66』みたいなアメリカらしいドラマとか…。

みんな、いつかは海外に行きたい、英語を勉強したいっていう気持ちがあった。

今の若者はあまり海外に眼を向けていないような気がする。

ハービー 60年代前後は学生運動が盛んだった。

ロバート 60年代を基点に、動乱の時代に突入しました。ヒッピー、ベトナム戦争反対運動、学生運動とか。64年までは50年代を引きずった平和…というか保守的な時代だった。50年代は甘いポップソングが多かったのが、60年代になると若者よ、怒れ!みたいなメッセージソングが多くなりましたね。

ハービー 戦後10年は、今日を生きていけるかどうかという世界だった。日本を再建するのに一生を捧げ、自分のことは頭にないっていう。20年経って、自由とは、資本主義とは何か、とか、アイデンティティを主張し始めた。

ロバート 小津安二郎監督の映画でも、企業戦士で、家族の幸せとか、戦争の負い目とかを語りながらめっちゃ飲んでる人が出てくるよね。酒飲みの文化だった。それが何かを癒していたんじゃないかな。

ハービー 与えられたもので、精いっぱい楽しみを見出すしかなかったんでしょうね。今みたいに多様性がなかった。ヒット曲は国民全員が歌えたし。

ロバート 『高校三年生』とかみんな歌えたものね。多様性がなかったから、一丸となって、まとまりがありましたね。

『二十歳の憧憬』ハービー・山口氏が20歳のころに撮影した写真

ハービー 僕が大学1年生のころの写真ですね。1970年、オリンピックから2、3年たったころ。この頃にはプロになろうと思っていました。写真のスタイルは変わりませんね。

この頃撮った、初恋の女の子(手もつないだこともない。プラトニックな関係だったんですけどね!)の歌を、布袋寅泰さんの『GLORIOUS DAYS』で英語の歌詞で書きました。一度だけオートバイに乗せて、港の見える丘公園に行ったんです。そのときのことです。今、全国ツアーをしてるそうなんですけど、アンコールの前に歌ってくれてるそうで。

このあとすぐ、ロンドンへ行ったんです。

「沖縄の子どもたちです。返還前の沖縄に行きました。お菓子買うのもドル。マーケットの中に映画『網走番外地』(1965年公開)のポスターがあって、「沖縄が返還されたら沖縄にも雪が降る」なんてことも書いてありましたね」(ハービー)

「僕の大学の部活をとったものです」(ハービー)

「東京の近所の公園のお祭りでのおばあちゃん」(ハービー)

東京オリンピック後、海外へ羽ばたく

ロバート ロンドンに行って帰ってきて、どう日本は変わってた?

ハービー ロンドンで10年たたかれ、サブカルチャーにもまれて81年に初めて帰ってきたとき…。東京がきれいだなあと思ったのと、若者が自己主張していると思った。ロンドンに行く前は、短いスカートが流行れば短いスカートを良しとしていたのが、自分らしさとかを取り入れ始めていた。

ロバート ロンドンではどうやって生活してた?

ハービー 行ってすぐにお金がなくなって、日本人のいる劇団に入りました。半分日本人、半分イギリス人の。デヴィッド・ボウイとかミック・ジャガーが見にくるようなところだったんです。そこで100回出演しました。そのころは、写真撮っちゃダメだって言われて、撮っていませんでした。一生骨をうずめるつもりで役者をやれって。

ロバート この人、『微熱少年』(1987年)、『東京シャッターガール』(2013年)にも出てるんですよ。

ハービー 僕が25、6歳のとき、写真家の大御所ジョゼフ・クーデルカっていう世界的な写真家が僕の家に泊まってたんです。日本じゃありえないです。ロンドンだからこそ! そんな人と、いろんな写真の話をできたんです。

あと、デビュー前のボーイ・ジョージと家をシェアしたり…。

2020年、東京オリンピックに向けたメッセージ

ロバート 日本は世界に認めてもらった1964年と違い、今度は世界をリードする国になった。2020年のオリンピックで海外の人を迎え入れるにあたって、どういう印象を持って、それぞれの国に帰ってほしい?

ハービー 昔ほどの輸出力がない今、大切なのは精神面だと思う。世界がますます多様化している今、個人の利益より地球全体のことを考えないといけない、という気持ちをアピールしたい。

あとは、復興ですね。福島とか…。2020年の東京オリンピックを振り返って、これを境に世界が平和な方向に向かっていったよねっていう、メッセージになるといい。

ロバート 経済的なすごさでなく、「なんて居心地がいいんだろう、人が優しいんだろう、空気・水がきれいなんだろう」と考えてもらえるところを目指したいですよね。優しさや、受け入れる心っていう、原点を磨いてね。

3.11のとき、略奪とか暴動がなかったことを僕たちは不思議に思わなかったけど、世界の人がびっくりしてほめてくれたのには逆にびっくりした。日本に対して誇りを持つことができたよね。

ハービー 東北には行くたびに励まされます。日向で寝ていた人が、カメラを向けると髪の毛とかして正座するんです。気にしないでって言っても、東京から写真を撮りに来てくれたんでしょ、って。僕だったらそんな余裕ない。

東北の人が言ってたんですが、「東北では自然環境が厳しいから、自分だけじゃなくて、隣近所の助け合いの精神があたりまえだ」って。それで、その精神面を撮ろうって決めたんです。

『311 陽、また昇る』ハービー・山口氏が東日本大震災後に東北で撮影した写真

ハービー ライカ100周年イベントとして100人の写真家たちの展覧会をするんですが、そのなかの4枚に選ばれました。東北の人の精神性を伝える写真を展示します。

ロバート 2020年までに復興が終わっているとは思わない。原発だって終わっていないしね。現状を伝えないといけない。透明で寛容な社会であってほしいね。

ハービー これからどういう旅をしたい?

ロバート もっと海外に行って、いろんな人と語り合っていきたいね。

ハービー ミックス・ブラッドとして、日本人の課題とかはある?

ロバート 英語力だね。僕の息子は英語しかできないし、16歳の娘は日本語しかできない。息子は日本語、娘は英語を勉強しているんだけど…。英語教育は根本から変えないといけない。 僕の夢は、政府がインターナショナルスクールをもっと安くして、普通の学生がいけるようにすること。2年くらいの間にね。大学も半年や1年、休学して海外へ行くと単位をもらえるとかね。

今の若者って保守的になっているから、海外に出ると選択肢が増える、いろんな生き方があるんだって知ってほしい。あとは日本を外から見て、すばらしいところに住んでいたんだって認識して、そしてまた海外に行ってほしいね。

ハービー 僕は大学出た後に就職しなかったんですけど、ロンドンには「あなたにはあなたの行き方がある」と応援してもらったような気がする。クラブにいる人たちがみんなかっこいいんですね。でも何人かに「俺たちがいくら髪を黒く染めても、君が持っている黒いホンモノの髪にはかなわないんだよ」っていわれたときに、自分の持っているものに誇りを持っていいって思ったんです。

ロバート 僕はオーストラリアに16年いたんですけど、出来のいい奴でも、大学卒業してもすぐ就職しないでオーストラリアを自分の目で見るために半年間旅したり、イギリスでバイトしたりしていた。そのあと帰ってくると、企業はいい意味で採用してくれる。日本の企業は新卒にこだわる傾向があるけど、新しい目で見られるようになってほしいね。

ハービー イギリスでも貴族の息子は、成人すると家来を連れてヨーロッパ1週して、帰ってきて、自分の土地を治める。見識を持たせるグランドツアーがあったっていうよね。 これから世界はもっと狭くなる。そこで日本しか知らないっていうのではなく、世界に通じる自分のものさしを育てなきゃならないんだよ。

(文:高橋七重)

イベントでの写真が掲載されている写真集

人間を好きになる、ハートウォーミングな写真集

『HOPE』

ハービー・山口 著、講談社 刊

人々の日常を切り取った、「人生の希望」をテーマにしたモノクロ写真集。

前を向いてたくましく生きる、被災地の人々の姿

『HOPE 311 陽、また昇る』

ハービー・山口 著、講談社 刊

東日本大震災の被災地で、復興に向けてたくましく生きる人々の姿を映した写真集。

  

■ロバート・ハリス氏(左)/
横浜生まれ。高校時代から国内、海外をヒッチハイクで旅する。上智大学卒業後、東南アジアを放浪。バリ島で1年を過ごしたのちオーストラリアに渡り、1988年まで16年間滞在。シドニーで書店兼画廊「エグザイルス」を経営し、映画・TVなどの制作スタッフとしても活躍。帰国後、1992年よりJ‐WAVEのナビゲーターに。現在は作家やTV番組でも活躍する。
■ハービー・山口氏(右)/
東京都出身。大学卒業後の1973年にロンドンに渡り10年間を過ごす。パンクロックやニューウエーブのムーブメントに遭遇、デビュー前のボーイ・ジョージとルームシェアをするなど、最もエキサイティングだった時代を体験。そうした中で撮影された、生きたロンドンの写真が高く評価された。帰国後も福山雅治などの国内アーティストとのコラボレーションをしながら、市井の人々にカメラを向け、「人生を明るくする写真」を続けている。エッセイ執筆、ラジオ、テレビのパーソナリティー、布袋寅泰のプロジェクト「ギタリズム」では作詞家として参加。公式HP http://www.herbie-yamaguchi.com/

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アーティスト情報

ロバート・ハリス

生年月日1948年9月20日(69歳)
星座おとめ座
出生地神奈川県横浜市

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